介護奮戦記    最上部が最新データー  
私と妻による両親の悪戦苦闘の介護日記を綴ります。
2008年4月10日(木)「親孝行?」
 両親の介護を本格的にするようになってから1年数ヶ月が経った。このページに書くことが面倒なほど色々な事がある。
このコーナーを作った時は出来事を順次掲載するつもりだったがなぜか載せるのが億劫になった。
たまに、父・母の後姿を見ていると哀れさを感じる。それぞれに望みもしない病に侵されて治る見込みもなく、先々の希望、
楽しみ、なにもないのである。
だから載せるのが億劫になったというわけではない。ほかの事に比べるとなぜか載せるのがつまらないだけである。
だから今回は「つまる」事があったので載せる事にした。
2番目の弟が海外勤務が終了して帰国したので、この機会を捉えて親子5人水入らずで近くの保養施設で1泊した。
何十年ぶりかな、親子だけは初めてかな?
半身不随の母が耐えられるのか?心配したが身体傷害者用の特別室があったのでなんとか大丈夫だった。
みんなが元気で集いあうのが一番だがそうならないなら、一緒に美味しい物でも食べて一時を過ごそうということなのだ。
自己満足かも?
2007年4月11日(水)「デーサービス」
父、母は数キロ離れた介護施設に月・木曜日の週2回デーケアサービスに行っている。なるべく家に引き込もらないでストレスを開放できるように、また介護する側も少しでも世話から開放できる日を作るためでもある。
このような福祉サービスを有効に利用することで介護する側もされる側も気持ちの良い生活を維持することが出来るでしょう。
車椅子での送迎になるため室内から出入り出来る様にしなければいけない。
リビング→ウッドデッキ→スロープ→庭玄関前のスロープ→送迎車、玄関前の石畳が少しがたがたするが何とか通る事が出来る。
2007年4月1日(日)「ハンガーストライキ」
 
今日は午前中稲作の育苗用ビニールハウスのシート掛けをした。
昨年までは母の指揮で進めていたが今年からは私と妻の二人での作業になった。
朝食後作業に出て昼過ぎに終って帰って見ると母のお昼御飯がそのまま残っていた。
どうしたのか父に聞くが理由が分からない。
母はベットの中で何か呟きながら泣いている。
妻が午後のおやつのケーキを用意していたがそれも食べずに残していた。
夕方仕事を終えて帰ってくると母の機嫌が直っており、母が「今日はわがままを言ってごめんね」と言った。
父からハウスの作業をしていた事を聞いたようだ。
機嫌が悪かったのは、私が母の言う事(寝室にTVを置いて欲しい)を聞かずに仕事に出てしまった事に腹を立てていたらしい。
子ども返り現象の一つだろうか?
2007年3月31日(土)「焼き魚」
 
父は寡黙でおとなしくどちらかと言えば寝ていた方が好きなタイプ、食べ物も偏食形。
母は割とよくしゃべり、常に何かしていないと落ち着かないタイプ、何でも良く食べる。
 
昨日の夕食時、妻から聞いた話
母「おじいさんはいつも残すから私の焼き魚を半分あげる。おじいさんのは食べないで取っておいたら・・・」
父「・・・・」
母は早食して、父に焼き魚の半分を渡すのを忘れて完食した。
頭と骨だけの皿を横目で見ていた父「・・・」
ゆっくり食べている父に向って妻が「良いですよ。残してもいいからおじいさんのを食べて下さい」
父「わしゃー要らん!」
どうも、母に半分ずつ食べようと言われ、その上魚を全部食べられて拗ねたらしい。
父は魚嫌いと聞いていたが、最近は魚を喜んで食べていた。
お陰で私の昼ごはんのおかずに残り物の焼き魚が付いた。
2007年3月29日(木)「介護者と非介護者」
 退院して1週間が経った。
今まで介護される側だった父が母の左手と左足の役を果たしてくれている。
父はアルツハイマーの初期段階で以前は歩くのも話すのもおぼつかなかったが2年位前から進行が止まり、軽い散歩やテレビを見ることが出来るようになった。しかし、思考力は悪くこちらが言う事にかなり時間を掛けないと理解できない事が多い。本を読んだり趣味の何かをするということもあまり興味が無いようだ。母の方は頭はしっかりしているのでデーサービスに行く時の着る物や持ち物など父を指図して仕度をしている。
お陰で私たちが助かっている事も沢山ある。
 先日、トイレの手摺りを日曜大工で設置した。材料費3917円は介護保険から90%の補助が出る。車椅子でトイレに行って一人で用を足せるので私達も楽である。簡易トイレは当初思っていたほど使わなくて済んでいる。
 片手しか使えないと言う事はトイレットロールを使いにくいということで厚手の落紙を2枚をふたつ折りした物を使っている。
2007年3月25日(日)「写経」
 
母は入院・療養中にリハビリの意味で写経をしていた。帰ってからも一枚写経した。それをお寺に納めたいとの希望でお寺さんに連れて行くことにした。
しかし、お寺さんは石段や坂があるので車椅子は難しい。仕方が無いので境内まで自家用車でそこから背負って行った。
「たわむれに母を背負いてそのあまり、軽きに泣きて三歩歩まず」石川啄木の歌どおり、病開けの母の体は思ったより軽かった。
不自由な左手は肩にかからず、私の首に回してきた右手もやせ細っていた。
お寺の本堂への板場から畳の場所まで右手、右足でいざりながら必死にもがく母を見ていると目に熱いものが込上げてくる。
0.1%の可能性を求めてお祈りをする姿は「人間に対する神の無常さ」を感じざるを得なかった。
2007年3月22日(木)「母が帰ってきた」
 母が3ヶ月ぶりに帰ってきた。
昨年末に脳梗塞で緊急入院していた。
医者から左半身の麻痺はもう直らにだろうと宣告され、介護認定4級となり車椅子での生活を余儀なくされた。
父も8年ほど前から少し介護が必要で母が面倒を見ていたがここに来て2人をいっぺんに介護する事になり私も妻も面食らっている。
 今まで離れでの別生活から一緒の生活が始まった。
幸い新築時に介護を想定したバリアフリーの設計をしていたので特別な改造はなくトイレに手摺りを付ける程度で何とかなりそうだ。ただ、外へ出るときの為車椅子を玄関に横付け出来るようにするため玄関前の階段にはスロープを準備した。
介護用のベットとベットテーブル、車椅子をレンタルすることにした。簡易トイレは36120円で購入した。

入院中は、急に倒れたことで本人にとってかなりショックだったようで、2度と二本の足で歩けないと知ると気の強かった母も「あの時死ねばよかった」とか「早くあの世へ行きたい」等と言ったり、泣いてばかりいる状態が続いた。
「ワラ人形のクギを早く抜いてくれ」「お前は家に帰したくないから退院を長引かせているだろう」等、夢と現実の区別がつかない事やおかしな話をする。
こちらも付添いが重荷になる時少し辛く当たると「いじめる」とか「お前は薄情な子だ」等と言う。元気なころの優しかった母とは違う人間になったようで悲しくもあり情けなくもありこちらもむきになってつい反論する。退院前の一時期はそんな状況もあった。
しかし、先日TBSのTV番組金スマで安藤和津の「壮絶な介護」を見て自分の考え違いに気付いた。病気のため今の母には心のよりどころが無くなっているのだ。私達家族しか頼る所が無いのに私たちが冷たくすれば絶望があるのみだ。抑制心を司る前頭葉が脳梗塞により侵されているのかもしれない。
優しいいたわりの言葉をかける事や母の存在が必要な事を言葉で話しかけ、少しでも心が安らぐようにしてやるよう心がけるつもりだ。